墓の中から

クソリプガイジの墓場

2020.04.05

 人生しんどすぎる定期。人生が楽しかった時期、筋トレを必死こいて1カ月くらいしていた2018年の12月だけだ。あの時は脳から気持ちいい物質が出ていたし、肉体が変わっていくのが視覚で見えたし、人にも優しくできたし、とてもよかった。

 

 すぐにその無敵モードは終了し、今では死んだ目で貯金通帳の残高を追う毎日だ。先の見えないニート生活よりは1億倍マシなのだが、「生きていてよかった」とは全く思えない。金が貯まってもぼんやりとした死にたさは消えず、「コロナは1週間くらいで死ねていいな、薬物依存症だと苦しくても死ねないもんな」なとど思いながらマスクをして惰性で生きながらえている。

 

 薬物依存で呼吸困難に陥った時が人生で一番苦しい時だった。コロナなら死亡チャンスがあるのだが、薬物依存に死亡チャンスは訪れない。私のような人生が苦しい人間にとって、死は救済なのだが、コロナ死亡チャンスでオーダーされた仕事をこなせなくなるのはまずい。

 

 2019年末から、私は完全に仕事人間になっていた。

 金はなければ不幸だが、ありすぎてもあまり幸せではない。そのことはわかっているのだが、なかば依存症のようにしんどくても仕事をやめられない。

 

 月始になれば、強迫的に商品を出品しまくる。運がいいことに飽きられずに売れ続けている。入れ替わりの激しいこの不安定な稼業で稼ぎ続けられているのは、この自分の真面目すぎる性格のせいだろう。

 

 売れればうれしいが、苦しくもある。本当は月10万円で、もっと自分の時間を大切にして暮らしたい。お金の豊かさは、人生の豊かさではない。お金がない苦しみに比べればちっぽけな苦しみかもしれないが、目先の数字を追い続けるのはまるで先の見えないマラソンを走り続けているみたいでしんどい。

 

 しかし、仕事をしている時だけは、自分のみじめな人生に向き合わなくて済む。売り上げのメールが届くたびに脳汁が出る。お金だけが自分を肯定してくれるのだ。なぜここまで金銭に執着するのか、その理由は自分なりに本を読んで理解している。

 

 結局は、人間関係がちゃんと築けていないから、何かに依存してしまうのだ。金の不安は、人間関係の不安なのである。これ薬やってた時と同じだな。薬からお金稼ぎに依存対象が変わっただけだ。

 

 資本社会ではそれもいいのかもしれないが、必要以上のお金を稼ごうとしている。月10万円で生活できるのに、金を稼いでいないと不安で、他にやることがない。

 

 金を稼いで、つかうわけではない。むしろ堅実すぎるくらいに貯金している。いつ働けなくなるのか。いつ稼げなくなるのか。その不安感と、売り上げ報告のエサのコンボで、体がしんどくても、おなかがすいても、自分を痛めつけながら目先の金を追うことをやめられない。

 

 私に母親のような愛情を求め、まるで幼児のような同居人と向き合うよりも、売り上げを維持することの方が自分にとっては遥かに重要なのだ。

 

 同居人は、4時間くらい自分のお気持ちを強く主張し続けていた。色んな不満や愚痴を声高に主張しているが、結局は「もっと自分を大切にしろ」という気持ちが根底に隠れているのは見えている。

 

 私にとっては金稼ぎが第一で、人間関係など優先順位の最下位だ。愛情第一の同居人に私は物足りない存在であり続けるだろう。

 

 同居人の怒りは、「もっと自分のことを大切にしてほしい」という悲痛な叫びなのである。かわいそうだと思った。私をにらみ続ける反抗的な目が、「さみしい」と訴えている。それに思わず同情して泣いてしまった。「自分を愛してほしい」と怒るほど、悲しいことがあるのだろうか?

 

 しかし、私の頭の隅にあったのは「このまま喧嘩が長引けば、仕事ができない」という一点であった。時間が経過すれば疲れて根負けするだろうと思っていたが、同居人の口調はヒートアップするばかりだ。

 

 私は疲れ切っていた。こいつのように体力がないし、3回くらいトイレに避難して居眠りをした。そこまでしても私が避難しなかったのは、仕事があるからである。仕事をキャンセルしたり、仕事がうまく回らなくなることが自分にとって最もストレスなことだった。

 

 今までのケンカで私が同居を解消しなかったのも、押し入れに仕事道具一式がみっちり詰まっているからであり、実家を出たおかげで稼ぎやすい環境が整ったからである。

 

 結局、私が1番愛しているのはお金なのだ。お金というまやかしの安心感だ。人間関係で安心感を得ている人間は、お金はあまり必要じゃないだろう。でも人間不信をこじらせまくった私にとっては、人間関係をどうにかするよりも、お金を稼ぐ方がとっても簡単で楽だ。お手軽に自己肯定ができるので簡単にワーカホリックになる。恐ろしい。

 

 私が避けなければいけないことは、仕事道具を同居人に発見され、ひっかき回されることだった。この道具をそろえるまでに時間も手間もかかった。皮肉なことに、自由でいるいために始めた稼業が、自分をみっともなく縛りつけている。

 

 4時間くらい経過した頃、同居人を憎みながら、口先で謝罪を繰り返した。「一緒に暮らしたい」と口先で言った。本心は、同居人のことを憎んでいたし、縁を切るつもりで、頭の中は家を出ることでいっぱいだった。

 

 愛情などというものを私は心の底から信用していない。愛情は、愛憎に変わるからだ。「大好き」「愛している」とのたまったその口で、相手を口汚く罵る。こいつは、私のことなど見ていない。自分のお気持ちを受け入れてくれるハリボテの人形が必要なだけだ。口先での謝罪をする自分も、口先での謝罪を信用して態度を180度変え、甘えた口調で「仲直りしたい」とのたまう同居人が憎い。

 

 かわいそうなヤツだ。こいつも、私も。お互いに手に入らないものを相手に求めているのだから。安心感など金で決して手に入らないとわかりながらも、目先の数字を追う快感に取りつかれている。それが苦しい。

 

 これはちょっとした依存症だ。誰かに金を与えてもらえばすぐにやめることができるかもしれないし、できないかもしれない。

 

 昔はこうではなかった。中学3年生の時に、小説を書いていた。「お金は関係ない。誰かに認められなくても、自分が書きたいものを書いていたい」と文章にしたのを今でも覚えている。それはお金の重さを知らず、扶養される身分だったからだろうか?

 

 そろそろ、この稼業の辞め時だろうか。人生の辞め時だろうか。いくらお金が貯まっても、人生がつらく苦しいのに変わりはない。それなのに、この部屋に入ってしまえば私は稼ぐこと以外考えられなくなる。

 

 収入が上がっても、転売ヤーをつかまえても、誰も肯定してくれない。肯定してくれるのは数字だけだ。そしてその数字が自分を縛りつけ、身重にさせる。それなのにやめられない。お金を稼ぐことは辛く苦しい作業だが、目の前にお金が落ちているとわかっているのに、無視することができない。

 

 しかし、自己肯定は進んだのか? なぜ、自分を幸せにするとわかっている筋トレを毎日できないのだろう。みんな幸せになりたくて何かをやっているはずだ。私も幸せになりたくて実家を出て、自力で金稼ぎを始めたのだが、行き着く先は同じ袋小路なのか。