墓の中から

話し合うことはない。とりあえず読んでくれ。

運がよかっただけ

 

 ブログはもう書かないでよいかな、と昨日思ったが、やはり自意識がうるさいので当分はブログを続けると思う。考えすぎてしまう病気である。ただ、自分の場合は、ああでもない、こうでもないとゴチャゴチャ考えて納得できたこともあった。だから、ブログを通して自分を見つめ、分析しておきたい。生きていくための手立てである。

 

 

 メンヘラ.jpというサイトにずいぶんと救われた。「人生を無理やり楽しみましょう」という姿勢は、考えもつかなかった。なんせ、ネットには「センチメンタルにひたろう」「他人に文句を言おう」という考えが充満していて、私は完全に乗っかってしまっていた。

 

 

 メンヘラ.jpは「わかり手」さんが管理者をしているのだが、ツイートを読んでいても「なるほどな」と納得できることが多い。他人の意見には耳をかたむけられない偏屈な私なのだが、「肩の力を抜いて生きませんか?」ということを発信されているため、すんなりと受け入れやすい。

 

 

 私はこのブログでさんざん「健常者」「障害者」と線引きをして、健常者に恨みつらみをぶつけてきたが、「健常者に石を投げすぎるのはやめませんか? 謙虚にならないと、受け入れてもらえませんよ」というニュアンスのツイートをされているのを見て、ストンと腑に落ちた。当たり前のことを言われているのだが、余裕がある状態になって初めて理解できる。処方薬が適応していて、心に余裕があるからである。心に余裕がないのならば、いくら正論をぶつけられてもしんどいだけである。

 

 

 

「2000年代のメンヘラはリストカットがクールだったし、2005年のメンヘラはODがクールだった。2010年のメンヘラは自殺未遂がクールだったが、2017年のメンヘラは精神科への通院がクールであってほしい」というようなツイートがあったが、本当にそうであってほしい。ネットの適当な知識をあさるよりも、まともな大学を出た精神科医にかかることが先決である。私はリストカットもODも自殺未遂も、この順番どおりやらかしてきたが、今はやっと適合する薬に出会い、通院に落ち着くことができそうな予感がしている。幸せなことである。

 

 

 だが、どれも「やってやろう」と思ってやったことではない。リストカットもODも自殺未遂も、自分の人生に大きな汚点を残すし、やらないですむに越したことはない。だが、自傷行為をしないと、生きていけない人間が確実にいるのである。

 

 

 リストカットなんかは、自分はそんなにハマらなかったので、ザクザク自分の体を切りまくっている人間心理がよくわからなかった。「まぢやみ。。リスカした。。」というコピペもツイッターでよくはやっていた。リストカットは、「病んでいる」ということをわかりやすく他人に伝えられるのだろう。腕を切った画像をネットにアップされているのを何百回と目にしてきたが、自分がリストカッターではなかったため、「見せびらかしたいだけなのか?」と大変失礼な妄想もしてしまった。

 

 

 だが、「極限の精神状態で腕を切ることで、脳内物質が分泌され、痛さを感じない上に多幸感をおぼえる(もちろん個人差はあるし、やらないですむに越したことはない)」とメンヘラ.jpのサイトで分析されていて、深く納得した。「他人にかまってほしいから腕を切る」との通説がいかに浅く的外れであるかがわかる(自分もそう思ってしまっていた)。

 

 

「目の前の現実はつらいけど、逃げられない!⇒逃げられなくてしんどい!⇒一瞬だけでもつらさから逃れたい!⇒また腕を切ればいいんだ!⇒腕を切ってしまった…自分はダメな奴だ⇒切るのはやめよう⇒目の前の現実がつらい!!」というループと想像できる。完全に悪循環である。

 

 

 私がODにハマってしまった理由と同じである。薬を飲めば、ストレスは感じにくくなるし、ふつうの人間のフリができた(と自分では思っていた)ので、ズブズブと大量の薬と付き合うことになってしまった。リストカットよりも、薬をただ水で流し込むだけなので、楽な作業である。ODを推奨をしている意図はまったくないが、こうでもして自分を痛めつけないと生きていけなかったのである。だが、薬を飲んで、自分の本意でないことをしてしまい、自分を偽り生きていくのは、大変しんどいし、不幸だった。

 

 

 過去の記事で「薬を飲みながら生きるか、飲まずに死ぬかの2択」と書いていたが、前者を選択できて本当に運がよかったなと思う。良いも悪いも判断はつかない。ただ、運がよかった、それだけだ。

 

 

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