墓の中から

クソリプガイジの墓場

「人間いつかは死ぬ」という事実がお守り

 

 断薬して1週間が経過していた。正直、八方ふさがりだった。体はだるく、ご飯を食べにいくのでさえ、起き上がる気力がない。家族ともまったく会話を交わしていなかった。薬は効いているか効いていないんだかわからない、軽めのやつを1日1錠(健全すぎる)、経口摂取している。

 

 これは、薬を飲み始める前の「死んでも、死ななくても、どうでもいいような感じ」である。薬を飲まないこそすれ、心は健全ではない。薬以外のことに対して、興味関心が薄れる。風呂に入る、ご飯を食べる、排泄する。それをスローペースで行って、ベッドの上でiPadをいじる。

 

「暇だ、退屈だ」

「外に出たい」

 

 そんな気持ちが一切わかない。

 

「こうやってムダなことをしているうちに、なんとなく時間が過ぎていてくれれば、苦しまずにすむ」というだけである。

 

「時間つぶし」である。「これだけ時間をつぶしても、まだまだ死は先かあ」とも思う。

 

 

***

 

 母親に、薬をまた自分で購入している件について責められた。この人は、「薬をやめるか、やめないか」、白か黒かの二元論者なんだろうな。

 

「断薬していると信じていた私の気持ちを裏切った

 

 こういう人は、「してあげた」から「それに報いろ」と、うるさく囀る。断薬は、精神科、ひいては両親の意思である。私は一度「自分のテンションを上げるために薬はやらない」と、両親の目の前で宣言したが、正直、目の前の苦しみから逃れられるなら、また薬はやるだとうと思っていた。体の依存はほぼないことだし。

 

「じゃあ、一生私を信じないでください。一生薬漬けですから」と返した。

 

「一生、薬はやらない」とかいうクソみたいな言葉より、よっぽど現実味があって、人間らしくありませんか?

 

 本当に、自分の中でさえ、色んなものがゴチャゴチャ口出しをしてきてやかましいのに、外までやかましいのは勘弁してほしい。

 

 父親は頑固だが話ができる。母親は流されやすいが話ができない。おそらく、「ふつうの」感覚を持った母親と2人で暮らしていると、「ふつう」を押し付けられすぎた挙句、家を飛び出すかもしれない。

 

 姉と母の折り合いが悪かったのは、姉は「お姉ちゃんだから、で我慢させられた」と言うが、ただの性格の不一致ではないかと思っている。私は、面倒なので愚痴を言わない。姉は、反抗していく外交的な性格。それが、母親と合わなかっただけだ。もし私が姉という立場でも、妹は「お姉ちゃんばっかりひいきしてた」と言うのかもしれない。

 

 姉は子どもを連れて月に1度ペースくらいで里帰りをしているが、それが最も良い距離感だと思う。馬の合わない人とは、離れて暮らした方がお互いの精神にもよい。まあ、今こうやって文章を書いている時だって、母親の存在にイライラしてしょうがないけど、特に「うぜえな!」って怒鳴るでもなし。地団駄踏むわけでもなし。エネルギーがないのである。ガス欠だ。面倒なので、文章に気持ちをぶつけているだけである。

 

 

 

***

 

 そういえば、パニックになった母親が「閉鎖病棟に入院する覚悟はあるの?」と聞いてきた。

 

「入院しても結果は同じやろ」と思っていたことをそのまま口にした。

 

「結果って?」

 

「何度も薬をやる。それか、自殺。どっちかしかない」

 

 「自殺するな」っていうのが、多数決なんだったら、せめて、薬をやりながら生きさせてほしい。

 合法だし、本当に生きてる事そのものがツライって、健常者にはどうも理解してもらえぬ苦しみのようだし。

 

 そういえば、ゴリゴリに健常者の友達が、「子ども欲しくないの?」と聞いてきたので、「生きるの苦しいし、子どもにも同じ思いさせたくない」と言ったら「???」っていう感じだったし。

 

 ああ、生きるとか、死ぬとか、難しいことをゴチャゴチャ考えずに生きられるまっとうな人間がいるんだなあ、人間の底からうらやましい……と思った。

 

 

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 まあ、これはただの予想なんだけど、この後、両親の支援で精神病棟で治療をしたり、ダルクに通ったりするんだろうけど、何度も薬をやって、両親が死んでから薬ライフは加速して、生活保護までいって、最期は自殺すると思うんだよなあ。最期は自殺、って大学生の頃から思ってるけど、まあ、そうなるんだろうな。きっとロクな人生を歩めない。

 

 自宅から飛び降りたのだって、薬剤性パーキンソン病で体の自由がきかなくなってたからっていうのもあったけど、基本的に、頭の中で自殺することを何回も何回も何回もシミュレーションしてたからだし。

 

 無意識に想像しちゃってることは、実現するんだよなあ。他に明るい選択肢があれば提示してください。

 

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 なぜ薬を飲むのか? について、「人と関わることうんぬん~」を理由にしてきたけど、人と関わらなくても薬を飲みたくなるので、根っからのジャンキーなんでしょう。あと、脳内物質が不足してるから。医者よ、減薬と傾聴は素晴らしい治療法だが、減薬されすぎても、人間は死ぬぞ。薬で縛り付けておいた方が、メンヘラは長持ちする。

 

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 不思議

 

 今までよく、健常者の世界で、マトモなふりして生存してきたよなあ、すごいぞオマエ、と自分を称えたい気持ちがある。よくよく考えたら、感情を殺して色んなことを我慢し、やりたくないことは薬をオーバードーズしてまでやりのけた(やった、とは言わないかもしれないが)。

 

 私は、人間世界であまり人間のフリをするのが得意じゃなかった。しかし、「私は得意なんだ!」と思いたくて思いたくてしょうがなかった。喋りたくないことを喋り、全体を見て周りに合わせた。私の意思は、そこには何ひとつなかった。ひとりでいる時間こそ、自分にとって意味のあるものだった。引きつった笑顔で、から回る思考で、私は人間世界のショウを渡り歩いてきたが、閉幕したい。

 

 

 私は死ぬ時は飛び降り派なのですが、元勤務市役所が、自殺ができるほどビルが高くないため、却下になりそうである。自然が好きなので、自然の中で首吊りもめちゃくちゃによい。

 

「まだ若く貯金もある今しかできないのでは?」とも思う。自殺は自由だ。いつ、どこで、どうやって死ぬかは、まったくの個人の自由だ。何もかも強制されまくっているこのクソクソクソクソみたいなうんこ社会で、唯一人間が持っている心臓をもぎとる自由である。

 

 今日から3月か。多くの報われない諸君は、春は嫌いだろうが、私は好きです。春って、嫌なものを全部いいものに変えてくれそうじゃないですか。コミュ障で友達がいない自分も、友達が多くて明るい自分になれたりするじゃないですか。そういう変化がある春は、季節のなかでいちばん好きです。

 

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 小学4年生の頃から塾に通わされ、中学校受験をし、浪人までしていい大学に入り、市役所に勤務したものの、薬物中毒になって自宅のベランダから飛び降りた所で私の人生は、社会的に終了しているため、何も隠すことはないので、数少ない友人にはこのブログを教えている(親も見ている)。

 

 

 で、健常者の反応はこうである。

「え~やば~つらかったんだね~。私/オレもつらいことあってさ~(以下、自分語り)」

「自分らしく生きようよ!(啓発本の押し売りか?)」

「へえ~(スルー)」

 

 

 私は実に安心した。もっと、ビビられると思ってたからである(内心ではドン引きだろうが)。

 

 

 他人の、「私への興味のなさ」に、めちゃくちゃ安心した。

 

 

 私はいわゆる「かまってちゃんメンヘラ」などではなく、「ほっといてくれメンヘラ」なので、こういう「ほーん、それで?(鼻ほじ)」みたいな「他人の人生に興味ありませんスタンス」に、死ぬほど安心する。

 

 だからこそ、両親の「薬やめろ押し売り」が、押し付けがましく鬱陶しいのかもしれない(親なので、そういうスタンスを取るのは当たり前なのですが)。

 

 私は、自分で決定する力すらも持たないニート精神障がい者である。

 

 しかし、反抗する力こそが、生きる源なのである。

 

 

クソリプ飛ばすジジイ消えろ! 燃やす!」と叫ぶと、自分が生きててもいいような気がしてくるのである(人にゴチャゴチャ口出しして自分を保つゴミよりも自己批判できる方がまだマシである)

 

 

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 まあ、どんな啓発本を読んだって、どんなすご腕のカウンセラーのカウンセリングを受けたところで、この苦しみを背負っていくのは、あなた、私、それぞれでしかないのですよ。「苦しみをわける」ことなど、できません。できるって言えちゃう人は、人間成功組です。私は、人間失敗組なのでとてもじゃないが無理。