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墓の中から

話し合うことはない。とりあえず読んでくれ。

ストーカー依存症

※男性蔑視の文章を書くので、自分を客観視できない男性は読まない方がよいかもしれない。嫌な気分になるだろう。自分を客観視できない一部の男性をボコボコに叩いている。

 

 

 「この記事を読んだが、オレはこんなんじゃないぞ!」「もしかして、僕のことかな?」というオスの感想は求めていない。反応するのならば、後ろめたいことがあるのだろう。「男性はこんな人ばっかりじゃないですよ(笑)」「自意識過剰じゃない?」というメスの感想も必要ない。

 

 

 こういう人間がいてイライラさせられました、という愚痴である。 2度言うが、愚痴である。私が主観的にイラついたことである。ここはチラシの裏であり、私は便所のラクガキである。

 以下、読みたいのならば自己責任でお願いしたい。

 

 

 

 

 

 私はたびたびこのブログで、メンヘラ全開の文章を書いてきた。「死にたい」という記事を書くと、「僕と付き合うとメンヘラを治してあげますよ!」とか、「暗い音楽ばっかり聞いてたらダメだよ!」とか、「自殺を考えるなら僕のことを考えて?」とか、おまえはどの立場からモノ申しているんだ? と思わされる神から目線の的外れなメッセージを送ってくるオスがいる。

 

 

 若く、悩んでいるメスにゴチャゴチャ難癖をつけたり、悩みを聞いてあげる風をよそおってワンチャンを狙おうとしているのは、決まって小金持ちの高齢のオスであるもちろん、独身ならばどのようなメスをどのように口説くかはオスの自由である。自由は尊重されるべきだが、公的の良俗に反しない限りである。誰かの自由でイライラする人間がいるなら、その自由は制限されるべきではないか?

 

 

 本当に、今まで勘違いした高齢のオスにイライラさせられてきた。リアルで口論したことも何度かある。相性が悪いのである。高齢のオスはプライドが高いが、私もプライドが高く、折り合いがつかない。若いオスは、ゆとり教育の賜物か、トゲトゲした性格の者は少ないため衝突することがない。私のような口だけうるさいメンヘラのメスにゴチャゴチャ言ったところで無駄とあきらめているのかもしれない。 

 

 

 公務員を正規職員でやっていた時に職場で接した高齢のオスは、実力もあるだろうが、自分の肩書に酔い権力をふりかざすオスが多かった。地方都市の公務員でイキリまくっているオスは、以下のようなものだった。

 

 

 部長の高齢のオスを電話対応したのだが、「名前だけで部長とわからないのか?」と言われたことがある。私は、数秒ごとに電話を取ってテンパっている発達障害ぎみの新卒職員である。「部長! 申し訳ございません! 部長!」と役職を連呼して平謝りしながら、内心で「これが部長のレベルなのか?」とあきれていた。

 

 

 部長にまでのぼりつめた高齢のオスは過去に成功した実績もあり、口達者である。私のようなつつきやすい小娘を見つけてはゴチャゴチャ口をはさんで、マウントを取ろうとしてくる。私も、高齢のオスがゴチャゴチャ口をはやみやすい要素を持っている。高齢のオスのプライドを逆なでする発言・言動をしていると思う。「いじめられる方が悪いか、いじめる方が」悪いかというデリケートな話だ。私はいじめられる側なので、いじめる側をボコボコに叩く。だから、何度も言うが、これは愚痴である。

  

 

 メンヘラバッシングをするオスももちろん鬱陶しいのだが、メンヘラとワンチャンを狙おうと下心丸出しのオスもいる。こちらも同等に嫌悪する。「メンヘラはすぐヤれるし、こいつもヤれるかも!」「僕もメンヘラだから、メンヘラちゃんと同じだよ!」と妄想するオスがいる。完全に言葉が通じず笑ってしまう。若いオスが暴走するのは、経験値が足りないことが多いのでまだ気持ちはわかるのだが、社会経験を積み、ある程度道理をわかっているはずの高齢のオスが暴走するのを見るのは、恐怖である。

 

 

 妄想するのは個人の自由である。しかし、私にその感情をぶつけてくると話は違う。感情の押しつけは一方通行のコミュニケーションであり、相手のことを考えているフリをしながら、実のところ、自分の気持ちを押しつけているだけである。相手のことをまったく考えていない。

 

 

 

 私に「起きたよ。ご飯を食べたよ。今から寝るよ。愛してる...」と、実況メッセージを毎日送りつけてくる高齢のオスがいるのだが、おまえとは他人だぞ? なぜ勘違いして恋人ヅラしているんだ? 「今〇〇している」という事柄は、ツイッターに書くべきではないか? なぜおはようからおやすみまで興味のない高齢のオスと関わらなければならないんだ? 好意の押しつけは、一方的であり、迷惑なだけである。若いメスに相手にしてもらって舞い上がっているのかもしれないが、メッセージを読むたびイライラするので書かせてもらう。

 

 

 また、「自分がメッセージを送りたいだけだから、気にしないで?^^」というのも、ただの押しつけである。メッセージを受け取る私としては、ストレスを感じるのでやめてほしい。なぜ高齢のオスは自分を客観視できずに、若いメスが自分に好意がある! ムフフー! ボクの好意もうれしいはず! と飛躍して妄想できてしまうのか?

 

 

 読売新聞のお悩み相談室で、上司であるオスが、若い事務員のメスが自分に好意を抱いているので(妄想)、好意にこたえてあげたい、だが私は妻も子どももいるんですがどうしたらよいですか? というものがあった。社会性があるはずの高齢のオスがこのような勘違いをしてしまうのは不思議だ。事務員の若いメスが上司に媚びを売るのは当然である。メスは、上司の役職に媚びているだけである。オスが若くかわいいメスが好きなように、メスも若くイケメンのオスがよいに決まっている。

 

 

 相手のことを思いやっている風で若いメスに説教をするオスのコミュニケーションはもうオワコンである。相手のことを思いやっている風で若いメスとタダでセックスをしようとしようとするコミュニケーションもオワコンである。何度も書くが、メスを口説こうとするのは自由である。オスが若いメスに下心を持つ気持ちは理解できるのだが、せめて、もうちょっと下心を隠しながら、あるいは金を見せながらメスを口説いた方がよいのでは? と他人ながら思ってしまう。

 

 

 例えば、メスとヤるHOWTOを教授している恋愛工学は、メスの私から見ると大変気持ち悪いが、実践的である。大量のメスと小さなコストでヤれるHOWTOを学ぶにはうってつけである。ヤれるかわからないメスひとりに夢中になって金を落とすよりも、恋愛工学のメールマガジンを読んで大量のメスを相手に実践した方が下半身の幸せのためによい。また、水野敬也のLOVE理論を読んで実践した方がよい。学校で恋愛の授業はないが、メスの口説き方HOWTOは検索エンジンで大量にヒットする。

 

 

 

 私はメスなので、オスの心理はわからない。が、「基本的に、若くて可愛い女とたくさんとヤりまくりたい」という心理に間違いはないだろう。だが、メスも動物である前に、人間である。そして、人間を口説くためにはコミュニケーションが必要である。コミュニケーションはピンポンである。キャッチボールである。間違えても、相手にボールを送りつづけてはいけない。相手の反応を見ながら、距離は縮めていくものである。距離感がおかしい人間は、相手に恐怖を与える。相手が距離を縮めてくれないからといって、逆上すればストーカーになる。

 

 

 ストーカーも一種の精神障害だと専門家に分析されている。スマホを見る」感覚で、相手に長文のメッセージを送ったり、ストーキングをしたり、ゴミをあさったりするクセがついてしまう。トーカー依存症である。ストーカーをすることで、つらい現実の満たされない気持ちが少し落ち着くのである。自分の意思でやめたくてもやめることができない、という点において、依存症と判断できる。

 

 

 よく、風俗嬢が「初対面の客に結婚しようって言われたんだけど諭吉3億持ってきてから言えや」などツイッターでブチ切れているのを見かける。かわいくて自分にニコニコしてくれるメスに、「自分に好意があるかも! ムフフー!」と勘違いするオスが中にはいる。そういう生理なのである。しかし、風俗をしているメスはとても冷静だし、見知らぬオスの性器を見たところで金になるとは思えど興奮はしない。貢ぎ物もにぎらせず、若いメスにタダマンをせがむオスは、「キモいんだけど! 去勢しろ!」とツイッターやラインでボコボコに叩かれるだけである。

 

 

 私もニコ生をしていた時に、露出狂のキチガイリスナーの性器をさんざん見せつけられたが、「私をオカズにするなら金払えや」「無料で興奮してんじゃねえぞ」と怒り心頭だった。風俗嬢ではないので、金を払われても性器は見たくない。また、見せられるとイライラする。「本当はうれしいんでしょ?」という脳みそがラリった発想ができるオスは、道端のゴミやウンコやゲロをいきなり見せつけられてうれしいのか?  私なら、突然ウンコを踏んだらキレる。

 

 

 オスはメスの体を見ると興奮するかもしれないが、メスはそういう風にはできていない。むしろ「汚いゲロを見せやがって!」と怒りを感じる。見知らぬオスの性器は、道端のゴミやウンコやゲロよりも最悪な気分になる。汚いものを見せられたら腹が立つだろ。肌がカサカサシワシワで髪も歯もぬけて顔がしわくちゃの70代の閉経したババアがデリヘルで来たら怒りがわくだろ。そういう性癖じゃない限り、金を払ってもヤりたくないだろ。だったら、無料でメスに性的サービスをねだるんじゃないよ。見返りを渡してから口説いてやれ。貢ぎ物や諭吉をメスににぎらせ、精神的にいい気持ちにさせてからセックスをねだれ。無料でヤれるメスは限られている。ほとんどのメスは、オスの無料でワンチャン狙いに死ぬほどイライラしている。

 

 

 こうやってオスにイライラし、わめいているのは私だけではない。ためしに、ツイッターで風俗嬢をフォローしてツイートを熟読してほしい。タダマンをやろうとしているオスにブチブチにブチ切れている嬢しかいない。「セックスできてお金をもらえていいなあ」という脳みそがラリったオスを1日中相手にするのだから、頭もいかれてくるのは簡単に想像がつく。デパスをODもするだろう。ホスト狂いにもなるだろう。整形依存症にもなるだろう。

 

 

 「仕事でセックスできていいなあ」とラリった意見を押しつけるのであれば、性的サービスを提供できるレベルにまで自分を磨いてほしい。めちゃくちゃ大変だぞ。オスの性的サービスの実情は女以上に過酷である。メスが求める性的サービスはひとりひとり違うからである。ただ性器をつっこんで終わりの話ではない。女は、精神的にも満たされたい難しい生き物である。深夜3時に長電話してくるメンヘラなども相手にせねばならない。

 

 

 セックス脳のオスは、ぜひ性的サービス/精神的サービスを提供できるくらい自分を磨き、レベルを高めてほしい。「メスがヤりたいオス」として選ばれているAV男優だって、最初は童貞のメガネオタクだった。メスにタダマンをせがむのなら、自分のレベルを上げよ。顔が気持ち悪いなら整形しろ。トークができないなら恋愛工学を学べ。筋トレをしてオスの魅力を上げよ。年齢を重ねているのなら、金をメスにばらまけ。そうじゃないと、若くて可愛いメスとつり合いが取れない。風俗という接点がなければ、関わることもなかった他人同士である。タダでキャバ嬢にメッセージを送りまくってる奴は、やり取りした内容をツイッターに晒されてるし、フォロワーに笑われてるぞ。

 

 

 だが、風俗嬢のメスも、そういうオスの生理を利用して巻き上げた金で生活している。だから、風俗嬢をやる限り、こうした勘違いしたオスに永遠にイライラさせられる宿命なのである。イライラさせられるかわりに、高い給料をもらうのである。給料は我慢代であり、精神的苦痛に見合った報酬が支払われる。私は幸運なことに風俗をやらないですんでいるので、勘違いしたオスには、このように容赦なく自分の意見を言わせてもらう。

 

 

 ストーカー考察に戻るが、興味のないオスからの「過剰な好意の押しつけ」は、メスは恐怖を感じる。オスはメスから好意を寄せられたら嬉しいだろうが、メスはその限りではない。言葉のわからないオスに、暴力でねじ伏せられてしまう可能性が高いからである。距離を置き、頭を冷やしてもらうのがよいが、行動力のあるストーカーの前では困難である。

 

 

 私も薬を乱用していた頃は、自分がおかしいとは思いながらも、他人に否定されると怒りまくっていた。なので、決して相手のストーカー行為を批判してはいけないし、突然連絡を絶ってはいけない。トーカー行為の証拠をしっかりと集め、相手の個人情報をつかんだ上で、警察にしっかり相談するが吉である。

 

 

 

 本当にただの愚痴を書いてしまった。要約すると、「下心丸出しでゴチャゴチャ説教すると滑稽だぞ」「若いメスに無料で相手してもらおうとするな」ということである。説教をしたいのならば金を払え。下心満開のメッセージを送りつけてくるのであれば精神的苦痛の代償をよこせ。おまえは自分で思っているほど魅力的なオス/人間ではないぞ。自分を客観視しろ。自己批判せよ。自己批判できず他人を不快にさせる高齢のオスよりも、自己批判し客観視できるメンヘラの方がマシである。

 

 

もう空気読めない、読みたくない!それでも生き残るためのコミュニケーション方法 – メンヘラ.jp

 

 

 メンヘラ.jpで、今までゴチャゴチャ書いてきたことがわかりやすく言葉にされていた。

 

 私はオスから勝手な意見を言われることが多かったので、一部のオスをフルボッコに叩いた。しかし、これはオスに限らず、人間は他人に勝手なことを言いまくる生き物なのである。私も勝手なことを主張しまくっている。だが、意見を言わなくなっては終わりである。他人にボコボコにされながらも、自分の主張は曲げることはできない。

 

 

 意見を言いたいのなら、私にいちいち報告をせず、ツイッターかブログで表現をすればよい。冒頭で述べたとおり、私は自分が接した一部のオスをボコボコに叩いたのであり、すべてのオスはこの限りではない。メンヘラを叩く精神があるのならば、自分のことも客観的に見つめ、自己批判してほしい。

 

 

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運がよかっただけ

 

 ブログはもう書かないでよいかな、と昨日思ったが、やはり自意識がうるさいので当分はブログを続けると思う。考えすぎてしまう病気である。ただ、自分の場合は、ああでもない、こうでもないとゴチャゴチャ考えて納得できたこともあった。だから、ブログを通して自分を見つめ、分析しておきたい。生きていくための手立てである。

 

 

 メンヘラ.jpというサイトにずいぶんと救われた。「人生を無理やり楽しみましょう」という姿勢は、考えもつかなかった。なんせ、ネットには「センチメンタルにひたろう」「他人に文句を言おう」という考えが充満していて、私は完全に乗っかってしまっていた。

 

 

 メンヘラ.jpは「わかり手」さんが管理者をしているのだが、ツイートを読んでいても「なるほどな」と納得できることが多い。他人の意見には耳をかたむけられない偏屈な私なのだが、「肩の力を抜いて生きませんか?」ということを発信されているため、すんなりと受け入れやすい。

 

 

 私はこのブログでさんざん「健常者」「障害者」と線引きをして、健常者に恨みつらみをぶつけてきたが、「健常者に石を投げすぎるのはやめませんか? 謙虚にならないと、受け入れてもらえませんよ」というニュアンスのツイートをされているのを見て、ストンと腑に落ちた。当たり前のことを言われているのだが、余裕がある状態になって初めて理解できる。処方薬が適応していて、心に余裕があるからである。心に余裕がないのならば、いくら正論をぶつけられてもしんどいだけである。

 

 

 

「2000年代のメンヘラはリストカットがクールだったし、2005年のメンヘラはODがクールだった。2010年のメンヘラは自殺未遂がクールだったが、2017年のメンヘラは精神科への通院がクールであってほしい」というようなツイートがあったが、本当にそうであってほしい。ネットの適当な知識をあさるよりも、まともな大学を出た精神科医にかかることが先決である。私はリストカットもODも自殺未遂も、この順番どおりやらかしてきたが、今はやっと適合する薬に出会い、通院に落ち着くことができそうな予感がしている。幸せなことである。

 

 

 だが、どれも「やってやろう」と思ってやったことではない。リストカットもODも自殺未遂も、自分の人生に大きな汚点を残すし、やらないですむに越したことはない。だが、自傷行為をしないと、生きていけない人間が確実にいるのである。

 

 

 リストカットなんかは、自分はそんなにハマらなかったので、ザクザク自分の体を切りまくっている人間心理がよくわからなかった。「まぢやみ。。リスカした。。」というコピペもツイッターでよくはやっていた。リストカットは、「病んでいる」ということをわかりやすく他人に伝えられるのだろう。腕を切った画像をネットにアップされているのを何百回と目にしてきたが、自分がリストカッターではなかったため、「見せびらかしたいだけなのか?」と大変失礼な妄想もしてしまった。

 

 

 だが、「極限の精神状態で腕を切ることで、脳内物質が分泌され、痛さを感じない上に多幸感をおぼえる(もちろん個人差はあるし、やらないですむに越したことはない)」とメンヘラ.jpのサイトで分析されていて、深く納得した。「他人にかまってほしいから腕を切る」との通説がいかに浅く的外れであるかがわかる(自分もそう思ってしまっていた)。

 

 

「目の前の現実はつらいけど、逃げられない!⇒逃げられなくてしんどい!⇒一瞬だけでもつらさから逃れたい!⇒また腕を切ればいいんだ!⇒腕を切ってしまった…自分はダメな奴だ⇒切るのはやめよう⇒目の前の現実がつらい!!」というループと想像できる。完全に悪循環である。

 

 

 私がODにハマってしまった理由と同じである。薬を飲めば、ストレスは感じにくくなるし、ふつうの人間のフリができた(と自分では思っていた)ので、ズブズブと大量の薬と付き合うことになってしまった。リストカットよりも、薬をただ水で流し込むだけなので、楽な作業である。ODを推奨をしている意図はまったくないが、こうでもして自分を痛めつけないと生きていけなかったのである。だが、薬を飲んで、自分の本意でないことをしてしまい、自分を偽り生きていくのは、大変しんどいし、不幸だった。

 

 

 過去の記事で「薬を飲みながら生きるか、飲まずに死ぬかの2択」と書いていたが、前者を選択できて本当に運がよかったなと思う。良いも悪いも判断はつかない。ただ、運がよかった、それだけだ。

 

 

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カウンセラーや医者にアドバイスされたことはすべて忘れたが、自分で出した結論はストンと腑に落ちる。

 このブログは、自分を見つめるために色々書いてきたのだが、もう必要ない予感がしている。心身共に回復したのは、新しい薬を試して2時間後のことである。完全に薬が適合している。

 

 そして、昨日1日薬を飲んでみて、「あ、これはやっていけるな」と確信した。ダラダラ悩みまくってしまったが、やっていける、と思うのは早かった。

 

 

 薬の圧勝である。薬学はすげえなと思う。私は文系人間だから、薬学はわからないが、理系人間だったら薬学を学びたかった。

 

 

 このブログでは、薬を処方しない頭のいい医者をさんざん無能と書いたのだが、もちろん無能はこの私である。死にたい人間は、早急にマトモな大学を出ている医者にかかった方がよい。医者に解決できることは限られているが、少なくとも、勝手なことを言う素人よりかは断然信じてよいと、今なら思える。

 

 

 健常者が気軽に「仕事だるい」というノリで「死にたい」と言ってしまうので、本当に消えて死んでしまいたい人間の居場所が無い。

 

 

 今服薬している薬は、統合失調症の患者が服薬するものらしい。なまじ中途半端な知識があったため、「統合失調症でもないのに、なぜこの薬なんだ?」「デパスは万人に効くから、デパスを処方してくれ」と、素人考えをしていた。医者が私の精神病をどのように分析したのかは知らないが、聞いたこともない薬だった。双極性障害にも使われる薬のようである。効果は弱~中程度なのだが、見事に自分にマッチングした。

 

 

 ネットで他人に悩みを打ち明けたり、いのちの電話に電話をして心無い言葉を投げつけられるくらいなら、マトモな大学を出た精神科医にかかれ。他人に適当なことを言われたり、ボランティアでやっているいのちの電話にできることなど、ましな精神科を紹介することくらいである。私は閉鎖病棟への入院を拒んだし、今でもその選択は間違っていなかったとは思うが、専門家に任せること、それが最も近道である。

 

 

 医者はもちろんであるが、私の場合、父の存在が大きかった。毒親であれば、とっくに家を出ていた。公務員になれと強制してきたのも父だが、マトモな精神科医を探したのも父であれば、仕事をせずに生きていく道筋を示してくれたのも父である。退職の手続きも9割方父が行ってくれた。もちろん、自分のやるべきことまで、父がやりすぎてくれている感じはある。自分のできることは自分でやらねばいけない。

 

 

 だが、合う薬に出会えていなかったら今でも医者を無能だと愚痴っていたと思うので、結果論でしかない。合う薬に出会って、運がよかったですね、という話である。

 

 

 やっと、人間らしく生きていける薬に出会えたので、ファボにイライラしたり、他人の言葉に過敏に反応しすぎることもない。今までスルーできなかったものをスルーできて、心穏やかである。今まで人間モドキだったが、今は人間である。

 

 

 今までさんざんゴチャゴチャ考えてきてわかったのだが、色々考えすぎない人間の方が徳が高いしハッピーに生きている。本当に、黙って運動をした方がよい。

 

 

 だが、わかってはいるが、考えてはしまう。私は頭が悪いが、頭のよい人間がさんざんアレコレ考えた結果、「何も考えない」ということが幸せだと結論を下したんだから、それが正しいと思う。だから、仏教なんかは、座禅なんかをして、何も考えない練習をすすめてるなと思う。

 

 

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人間らしい生き方

●人間らしい生き方ができる薬に出会えた話

 

 

 医者からの処方薬が、思わぬ効果を発揮している。薬が、すごく効いている。テンションが上がりすぎたり、下がり過ぎたりしない。フラットな状態である。

 

 

 一生、薬をコソコソ乱用しなければならないと思っていた。自殺は思いとどまったものの、どうやって毎日を過ごしたらよいかわからない中、光が見えてきた。

 

 

 もしかすると、薬に関係なく、年に1度あるかないかくらい、体調がいい時なのかもしれないが。しかし、昨日は4時間くらいしか寝ていないが、今間での、ものすごくだるい感じがない。今までのしんどさは何だったのか? 錯覚か? と思うほど楽である。

 

 

 私は発達障害ではないのだが、発達障害は、コンサータとストラテラという薬を飲んだら、「それまで頭がクッソ重たくて、モヤモヤが取れなかったのが、コンサータを初めてから驚くほど冴えてる。処理スピードが倍増してる」と、まとめサイトで表現してあった。この感覚が、すごくよくわかる。頭がクリアである。全身がナマリのような、重苦しさがない。

 

 

「健常者は、毎日こんなに体が軽いのか?????」と驚いている。こんなに体が軽く、精神も健全なら、そりゃあ人に優しくする余裕も出てくるかもしれない。

 

 

 今まで、人に優しくなれなかったのは自分の心がせまいせいもあるが、自分のことで精一杯だったから、ある程度しょうがないと納得できる。自分を責めて自殺をするよりは、他人に難癖をつけて自分を保つ方が健全かもしれない。

 

 

 昨日から新しい薬を飲み始めたのだが、今日、薬の効果を確信し、隠し持っていた薬を父にすべて渡した。私がコソコソ隠れて飲んでいた薬は、安く、すぐに効き目が出て、すぐに効き目がなくなる。薬を飲んで、やったことを何度も後悔した。本意でないことをやってしまった。しかし、今の薬は、しっかりと自分が何をしているか、意識ができる。

 

 

 だが、今までのしんどい期間があまりにも長すぎたため、不安は当然のように残る。薬が効いているのは、最初のうちだけではないか? 薬の効き目で楽になっているわけではないんじゃないか? 考えたらキリがないので、考えないが吉である。

 

 

 効果を発揮する薬があれば、薬の乱用など、しなくてすむ。私は今まで自分を薬づけのジャンキーだと思ってきた。しかし、合う薬に出会い、自ら薬を捨てた。

 

 

 だがこれは、何度も薬に手を出し、後悔を繰り返してきたから、今の状態にたどりつけたのである。ご飯をおいしく食べれたり、文章をかけたり、楽器を練習できたり、そういうことをしっかりと楽しめる。

 

 

 この薬のみでやっていけると判断するのは早いが、自分で購入した薬は、自分の本意でないことをしてしまう。酒で酔って、ハメを外してしまうのと同じである。今の薬では、テンションが上がりすぎたり、下がりすぎたりすることはない。

 

 

 かといって、薬は万能ではない。腹が減る・喉がかわく・睡眠がとれなくなるという副作用を感じていることを自分に覚えておいてほしいが、しんどさが軽減されるのであれば、ささいなことである。

 

 

 薬がまったくなかった時は、刺激を求めて、1日でアメを1袋なめたりしていた。虫歯になるが、止められなかった。薬がありすぎても、なさすぎても困る。自分らしくいられる薬があってよかった。これは2012年から販売された薬らしい。私がちょうど精神科に通い始めた頃に発売された、まだ新しい薬である。

 

 

 薬をコソコソ飲むのは、しんどかった。覚せい剤のように、快楽のために飲んでいると自分でも勘違いしていたが、しんどさがなくなれば、飲みたいという気持ちはわいてこない。

 

 

 今まで、刑務所のような生活だった。嫌でも、この頭のおかしい自分と向き合わねばならない。健康なら、自分の部屋で好き勝手にゴロゴロ過ごしていられていいじゃないかと思うかもしれない。だが、自分の部屋が、牢獄のようだった。さっさと苦しみから解放されるために、首吊りなども考え、もやい結びを練習したが、結び方は忘れてしまった。

 

 ここまでの道のりは、果てしなく遠かった。周りの人間の支援もあったが、やはり、私は薬至上主義なので、「薬最高」という結論にたどりつく。どんな聖人の説法も、薬が効いていないと、ただただしんどいし、「黙れカス」としか思わない。

 

 

 やっと自分らしい生活ができるかもしれない。今まで、人に言いたいことも言えなかったが(口頭で)、今は落ち着いている。言いたいことを表現できる。

 

 

 

●日常の幸せに感謝できる話

 

 

 日常の、ささやかな幸せを感じられることが幸せである。

 

 アジカンのソラニンという曲で、「たとえば今の幸せがだらっと続いたとする、きっと悪い種が芽を出して、もうさよならなんだ」という歌詞がある。

 

 ソラニンは、原作はマンガなのだが、宮崎あおい主演で映画化もされている。ストーリーはこうである。彼女がおり、バンドをしている若者の男が、「バンドを取るか、生活を取るか」という葛藤をする。男は、センチメンタルになりながら、最後は自殺(事故死)をして死んでしまうというストーリーだった(うろおぼえ)。

 

 私は学生の時にソラニンのマンガを買って読んだが、「さっぱりわからん」ということだけわかった。日常の、ささやかな幸せに感謝しない人間が、幸せになりたいと思うことはおこがましくないか? 私は性格が悪いので、「センチメンタルになったあげく、バイクで事故死(自殺)できて、苦しみから逃げられてよかったな?」という感想がわいた。

 

 バンドマンや、バンドマンを愛する女の愛読書らしいが、ソラニンのような、悲しみをセンチメンタルに語るストーリーが嫌いだ。私がamazarashiというバンドを好きだとこのブログで書いたら、ニコ生の住民に批判されたのだが、同じ理論で、おそらく中二病くさい奴はみんな叩きたくなるのだと思う。

 

 私の場合、完全に同族嫌悪だし、ブーメランしている。悪口を言いたいだけである。中二病くさいので、つい叩きやすい。ソラニンはフィクションだからまだ救われるが、ノンフィクションだとホラーだ。

 

 ソラニンは、思春期の時に読めば共感し、大人になれば叩きたくなる。悲劇のヒロインごっこは、学生のうちに卒業しておかねばならない。メンヘラが太宰治を愛し、一周まわってアンチ太宰治になるのと似ている。

 

 だが、ソラニンの主人公の男のような、平和ボケした人間は、大人になってくれば少ないのではないかと思う。若者特有のセンチメンタリズムだと思う。平和ボケした若者は私の身の回りにいたし、「おまえは何でも持ってるのになんで不幸ヅラしてるんだ?」とイライラすることもあった。だが、思春期をこじらせたんだろうな、と結論をくだしておきたい。

 

 

 ゴチャゴチャ書いてしまったが、ソラニンを批判するより、自己批判をしましょう。現状に悲観的になって、センチメンタルになるのは簡単である。「センチメンタルにひたって気持ち悪い」と、他人にゴチャゴチャ口出しをするのも簡単である。

 

 だが、ひたすらに悩んで、ああでもない、こうでもない、と何億回も繰り返して、やっと受容の境地にたどり着く。ガンの患者は、最初はガンを受け入れられられず現状を嘆くのだが、最後はみんなガンを受け入れて、うまく共存していく方法を探るらしい。さっさと受容して、楽になりましょう自分。

 

 

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進歩

 昨日、薬を飲むのは、「人としての尊厳を保つため」と書いた。

 

 「人としての尊厳」なんて、抽象的でわかりにくいけど、もっと具体的に書くとこうだ。自分の感情を表現するためである。

 

 皆、怒ったり、泣いたり、笑ったり、そうやって自分の感情を表現する。赤ちゃんは、言葉で欲求を伝えられないから、泣いて表現する。でも、私は薬がないと、怒ったり、泣いたり、笑ったり、そういうことさえもできない。感覚で感じてはいるものの、表現ができない。これはとても不幸なことだ。あなたがおしゃべり好きなら、おしゃべりがまったくできなくなる状態を想像してほしい。運動をするのが好きなら、運動がうまくできない状態を想像してほしい。薬の力を借りて、やっとやりたいことが少しできるのである。

 

 今日は、まだ体に薬が残っているので、こうやって冷静に表現できる。また、昨日、親が医者と話をして、また新しい薬を試すことになった。今はその薬を飲んで、落ち着いている。母親の皮肉にも、口答えすることができる。口答えができることも幸せである。何かを言われて、イライラしながら黙るよりもよっぽど健康である。

 

 

 しかし、薬が効かなければ、また薬を自分で購入してコソコソ飲むだろう。「薬を飲みたい」と、表現することさえも面倒である。なので、カードか何か、サインで伝えたい。これは体が動くうちにやっておいた方がよい。しんどくなってからは、何もできないのである。ベッドに縛りつけられて、動けなくなる。しかし、親が仕事に出ているときにしんどくなればどうすればよいのか? それは話し合いをしなければならない。

 

 

 今まで、薬をテンションを上げるために使っていたが、断薬を繰り返してからの薬の使い方は違う。昨日は部屋を掃除してキレイにしたし、観葉植物を買って部屋に置いたし、アメをいつでも食べられるようにまとめた。私にとっては、ものすごくエネルギーを使うことを、薬の力を借りて、1日でやった。しんどい時に、心が安らぐように、環境を整えた。進歩である。自分をほめたい。

 

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