墓の中から

クソリプガイジの墓場

人間断捨離

 このブログは自分のために書いている。過去の記事を読み返してみて、「なるほどな」と思う。健常者と話し合いをしたところで、「なるほどな」とは思わない。「おまえはそう考えているんだな、でも私は違いますが?」としか思わない。

 

 

 自分と対話をするしかない。他人と話し合っても、気づきは得られないからだ。クソみたいな死んだほうがよい自分と対話をするなんて苦痛でしかない。しかし、やりたくないと思っても自発的にやっている。自分の気持ちを見つめるしかない。

 

 

 こうやってゴチャゴチャ考えずにすむ健常者は、まさに「健全」である。「明日仕事だるいわ~」と言いながらダラダラ飲み会をする健常者は健全そのものである。私は仕事が嫌ならベランダから飛び降りる。

 

 

 健常者は、よく「普通なんかない」と主張するが、どれだけ自分が恵まれているか理解していないのだろう。おまえの周りにある「当たり前」のものは、すべて当たり前ではない。精神障がい者の私を責める前に、自己批判をしろ。

 

 

 私が過去に書いた記事で、薬を飲んだ時に「他人に『死ね』と大声で叫ぶ」という記事にドン引きした健常者が多い。それが「普通」の感覚である。おまえは普通なのだから、ゴチャゴチャ口出しをしてきてもムダである。

 

 

 

 形式的に、「お付き合いをする」と契約を結んでいる人間とスカイプで話し合いをしたが、お互いのために別れた方がよい。「子どもを産む」などもっての他である。精神が健全な女を探した方がよい。顔が可愛い女がいいのかもしれないが、ブサイクでも精神が健全な女の方がマシである。男はメンヘラでも可愛い女がいいとのたまうが、私ならブサイクでも心身共に健康な女の方がよい。

 

 こいつは、「待っていればメンヘラはおさまって、元に戻るかもしれない」と期待しているのかもしれないが、メンヘラは不治の病である。こいつとはもうアレコレ話し合いをする気はないので、この記事を読んでいたら、連絡先を消して連絡をしないでほしい。

 

 「薬を飲んでいたから、関係がうまくいっていた」だけである。関係が元に戻ることはありえない。このように攻撃する私に困惑してシカトをキメるくらいしかおまえはできないのだから、さっさと別れた方がよい。惰性でダラダラと関係を維持させるのは、お互いのためではない。

 

 本来、ブログに書くべきことではないのかもしれないが、これが私の「普通」である。困惑するなら、関係を清算した方がよい。私からはおまえに連絡をしない。おまえには「メンヘラを受け入れる器」がない。

 

 私もおまえに期待していたが、おまえも私に「メンヘラが治るのでは」と期待しているのだろう。無理である。こういう人間にダラダラ長文でメッセージを送っても伝わらないだろうから、「冷めたから別れたい」と言えばストレートに伝わるだろう。

 

 

 

 他人に期待するのはもうやめよう。自分に期待するのももうやめよう。

 

 私は薬を飲んで、他人とうまくやろうと思ってきたが、それがストレスの源である。他人に刃物を振り回して生きることしかできない。刑務所にぶち込まれるようなことをしないだけマシだと思うしかない。

 

 他人と関係を絶って気がつくが、人間関係の断捨離をしているなと思う。自殺に向かっている。

 

 

 

薬を飲みたいときに見るメモ

  

 目が覚めると生きていることを後悔している。

 

 一昨日から薬を自分で購入して服用したが、「苦しいので死にたい」という気持ちはどうしようもない。「薬を飲んで生きる」とは書いたものの、「遺される遺族がPTSDになっても死んだ方がマシである」と思う。

 

 薬で一時的に気持ちを回復させて、友人などと連絡をとったりもした。アルバイトをしようという気持ちにもなった。しかし、それらは薬のおかげである。目が覚めると、「友人と連絡を絶ちたい」「アルバイトなどできるはずがない」と後悔している。

 

 今までは、薬を飲んだらどうにか生きられるのではないかと考えていた。しかし、頭の良い善良な精神科医でさえ「薬なしで社会復帰せよ」と言ってくる。もう死ぬしかない。私は生きている限り「死ぬしかない」と自分を責め続けるだろう。誰に背負ってもらうこともできないこの苦しみをどうにもすることができず、それを抱えたまま死ぬだろう。

 

 こんなことを書くと、また「精神病棟に強制入院」という話になるので、もう黙るしかない。死ね。キチガイ病院にぶち込まれたところで、出所してから機会をうかがって自殺する。

 

 

 よく、「メンヘラ同士で依存しあう」というが、依存できるほど器の大きい人間など存在しない。「こいつに依存などできない」と簡単に諦めがつく。クソ人間に依存することで物事が解決できたら薬など必要ない。自殺などしなくてよい。生活保護制度などできない。しかし、誰かに依存する気も起らない。

 

 私の唯一の救いは、薬である。日本の精神医療はまだまだ発展途上である。薬学も同じである。ロボトミー手術でもよいので、この苦しみをどうにかしてほしい。手術で苦しみを取り除いてほしい。

 

  

 文章を書いて、客観的に感情を見つめているうちに、気分は落ち着いてきた。しかし、「死んだら楽になる」という思いは、認知行動療法などでどうにかできるものではない。キチガイ病院にぶち込まれたところで「生きます」などとは言えない。

 

 

 

「人間いつかは死ぬ」という事実がお守り

 

 断薬して1週間が経過していた。正直、八方ふさがりだった。体はだるく、ご飯を食べにいくのでさえ、起き上がる気力がない。家族ともまったく会話を交わしていなかった。薬は効いているか効いていないんだかわからない、軽めのやつを1日1錠(健全すぎる)、経口摂取している。

 

 これは、薬を飲み始める前の「死んでも、死ななくても、どうでもいいような感じ」である。薬を飲まないこそすれ、心は健全ではない。薬以外のことに対して、興味関心が薄れる。風呂に入る、ご飯を食べる、排泄する。それをスローペースで行って、ベッドの上でiPadをいじる。

 

「暇だ、退屈だ」

「外に出たい」

 

 そんな気持ちが一切わかない。

 

「こうやってムダなことをしているうちに、なんとなく時間が過ぎていてくれれば、苦しまずにすむ」というだけである。

 

「時間つぶし」である。「これだけ時間をつぶしても、まだまだ死は先かあ」とも思う。

 

 

***

 

 母親に、薬をまた自分で購入している件について責められた。この人は、「薬をやめるか、やめないか」、白か黒かの二元論者なんだろうな。

 

「断薬していると信じていた私の気持ちを裏切った

 

 こういう人は、「してあげた」から「それに報いろ」と、うるさく囀る。断薬は、精神科、ひいては両親の意思である。私は一度「自分のテンションを上げるために薬はやらない」と、両親の目の前で宣言したが、正直、目の前の苦しみから逃れられるなら、また薬はやるだとうと思っていた。体の依存はほぼないことだし。

 

「じゃあ、一生私を信じないでください。一生薬漬けですから」と返した。

 

「一生、薬はやらない」とかいうクソみたいな言葉より、よっぽど現実味があって、人間らしくありませんか?

 

 本当に、自分の中でさえ、色んなものがゴチャゴチャ口出しをしてきてやかましいのに、外までやかましいのは勘弁してほしい。

 

 父親は頑固だが話ができる。母親は流されやすいが話ができない。おそらく、「ふつうの」感覚を持った母親と2人で暮らしていると、「ふつう」を押し付けられすぎた挙句、家を飛び出すかもしれない。

 

 姉と母の折り合いが悪かったのは、姉は「お姉ちゃんだから、で我慢させられた」と言うが、ただの性格の不一致ではないかと思っている。私は、面倒なので愚痴を言わない。姉は、反抗していく外交的な性格。それが、母親と合わなかっただけだ。もし私が姉という立場でも、妹は「お姉ちゃんばっかりひいきしてた」と言うのかもしれない。

 

 姉は子どもを連れて月に1度ペースくらいで里帰りをしているが、それが最も良い距離感だと思う。馬の合わない人とは、離れて暮らした方がお互いの精神にもよい。まあ、今こうやって文章を書いている時だって、母親の存在にイライラしてしょうがないけど、特に「うぜえな!」って怒鳴るでもなし。地団駄踏むわけでもなし。エネルギーがないのである。ガス欠だ。面倒なので、文章に気持ちをぶつけているだけである。

 

 

 

***

 

 そういえば、パニックになった母親が「閉鎖病棟に入院する覚悟はあるの?」と聞いてきた。

 

「入院しても結果は同じやろ」と思っていたことをそのまま口にした。

 

「結果って?」

 

「何度も薬をやる。それか、自殺。どっちかしかない」

 

 「自殺するな」っていうのが、多数決なんだったら、せめて、薬をやりながら生きさせてほしい。

 合法だし、本当に生きてる事そのものがツライって、健常者にはどうも理解してもらえぬ苦しみのようだし。

 

 そういえば、ゴリゴリに健常者の友達が、「子ども欲しくないの?」と聞いてきたので、「生きるの苦しいし、子どもにも同じ思いさせたくない」と言ったら「???」っていう感じだったし。

 

 ああ、生きるとか、死ぬとか、難しいことをゴチャゴチャ考えずに生きられるまっとうな人間がいるんだなあ、人間の底からうらやましい……と思った。

 

 

***

 

 まあ、これはただの予想なんだけど、この後、両親の支援で精神病棟で治療をしたり、ダルクに通ったりするんだろうけど、何度も薬をやって、両親が死んでから薬ライフは加速して、生活保護までいって、最期は自殺すると思うんだよなあ。最期は自殺、って大学生の頃から思ってるけど、まあ、そうなるんだろうな。きっとロクな人生を歩めない。

 

 自宅から飛び降りたのだって、薬剤性パーキンソン病で体の自由がきかなくなってたからっていうのもあったけど、基本的に、頭の中で自殺することを何回も何回も何回もシミュレーションしてたからだし。

 

 無意識に想像しちゃってることは、実現するんだよなあ。他に明るい選択肢があれば提示してください。

 

***

 

 なぜ薬を飲むのか? について、「人と関わることうんぬん~」を理由にしてきたけど、人と関わらなくても薬を飲みたくなるので、根っからのジャンキーなんでしょう。あと、脳内物質が不足してるから。医者よ、減薬と傾聴は素晴らしい治療法だが、減薬されすぎても、人間は死ぬぞ。薬で縛り付けておいた方が、メンヘラは長持ちする。

 

***

 

 不思議

 

 今までよく、健常者の世界で、マトモなふりして生存してきたよなあ、すごいぞオマエ、と自分を称えたい気持ちがある。よくよく考えたら、感情を殺して色んなことを我慢し、やりたくないことは薬をオーバードーズしてまでやりのけた(やった、とは言わないかもしれないが)。

 

 私は、人間世界であまり人間のフリをするのが得意じゃなかった。しかし、「私は得意なんだ!」と思いたくて思いたくてしょうがなかった。喋りたくないことを喋り、全体を見て周りに合わせた。私の意思は、そこには何ひとつなかった。ひとりでいる時間こそ、自分にとって意味のあるものだった。引きつった笑顔で、から回る思考で、私は人間世界のショウを渡り歩いてきたが、閉幕したい。

 

 

 私は死ぬ時は飛び降り派なのですが、元勤務市役所が、自殺ができるほどビルが高くないため、却下になりそうである。自然が好きなので、自然の中で首吊りもめちゃくちゃによい。

 

「まだ若く貯金もある今しかできないのでは?」とも思う。自殺は自由だ。いつ、どこで、どうやって死ぬかは、まったくの個人の自由だ。何もかも強制されまくっているこのクソクソクソクソみたいなうんこ社会で、唯一人間が持っている心臓をもぎとる自由である。

 

 今日から3月か。多くの報われない諸君は、春は嫌いだろうが、私は好きです。春って、嫌なものを全部いいものに変えてくれそうじゃないですか。コミュ障で友達がいない自分も、友達が多くて明るい自分になれたりするじゃないですか。そういう変化がある春は、季節のなかでいちばん好きです。

 

****

 

 小学4年生の頃から塾に通わされ、中学校受験をし、浪人までしていい大学に入り、市役所に勤務したものの、薬物中毒になって自宅のベランダから飛び降りた所で私の人生は、社会的に終了しているため、何も隠すことはないので、数少ない友人にはこのブログを教えている(親も見ている)。

 

 

 で、健常者の反応はこうである。

「え~やば~つらかったんだね~。私/オレもつらいことあってさ~(以下、自分語り)」

「自分らしく生きようよ!(啓発本の押し売りか?)」

「へえ~(スルー)」

 

 

 私は実に安心した。もっと、ビビられると思ってたからである(内心ではドン引きだろうが)。

 

 

 他人の、「私への興味のなさ」に、めちゃくちゃ安心した。

 

 

 私はいわゆる「かまってちゃんメンヘラ」などではなく、「ほっといてくれメンヘラ」なので、こういう「ほーん、それで?(鼻ほじ)」みたいな「他人の人生に興味ありませんスタンス」に、死ぬほど安心する。

 

 だからこそ、両親の「薬やめろ押し売り」が、押し付けがましく鬱陶しいのかもしれない(親なので、そういうスタンスを取るのは当たり前なのですが)。

 

 私は、自分で決定する力すらも持たないニート精神障がい者である。

 

 しかし、反抗する力こそが、生きる源なのである。

 

 

クソリプ飛ばすジジイ消えろ! 燃やす!」と叫ぶと、自分が生きててもいいような気がしてくるのである(人にゴチャゴチャ口出しして自分を保つゴミよりも自己批判できる方がまだマシである)

 

 

***

 

 まあ、どんな啓発本を読んだって、どんなすご腕のカウンセラーのカウンセリングを受けたところで、この苦しみを背負っていくのは、あなた、私、それぞれでしかないのですよ。「苦しみをわける」ことなど、できません。できるって言えちゃう人は、人間成功組です。私は、人間失敗組なのでとてもじゃないが無理。

 

 

●道端のウンコを踏んでキレる人間の話

●道端のウンコを踏んでキレる人間

 

 

 道端のウンコ=クソリプ(クソみたいなコメントを相手に送ること)です。

 

www.bokurano-music.com

 

 

 私は、ブログを始めてから、自分がすごく偏った見方をしてるくせに、他人の意見を聞きたくない潔癖症な人間だな、と気づいた。道端のウンコを踏んだら、キレまくる人間だと思う。

 

 なので、考えの違う人間はブログを読まないでくださいね、と思っている(そもそも公開しなきゃいいんだけど)

 

 

 でも、逆にそういうウンコを「あ、ウンコがいるなあ」くらいにしか思っていなかったり、更には、「このウンコ、肥料にして、金になるのでは?」と気づいた頭のいい人間がいることに驚いた。

 

 

 

「ウンコは肥料として金になる!」と気づいた人間

 

 

 以下、ツイッターでさんざん「中身はおっさんだ」と言われている「暇な女子大生さん」のツイート。

 

 

 

 このツイートの持つ下ネタのパワーワードは、他のブログとかまとめでさんざん語りつくされているので、ここでは触れないでおく(おそらく初見の方は、「何だこれは??!」と引っかかるのではないかと思う。私は引っかかりまくってフォローした)。

 

 「暇な女子大生」のアカウントは、「慶応大学に通う女子大生が、出会い系アプリをを通して、毎日高学歴の男性と寝ている」ことをツイートしている。読み物としては、すごく面白いし、「声に出して読みたい日本語」を量産していると思う。

 

 

 このスクショでは、「妹尾ユウカ」が、「暇な女子大生」をディスってるんだけど、「暇な女子大生」は、「もっとやってください!」と言わんばかりにツイートをしている(「妹尾ユウカ」がウンコとは思わないけど)

 

 

 個人的には、出会い系アプリの回し者説を推したい。

 

「ディスってくれてありがとう! 広告費をかけずにすみます!」ってツイートしてるように思っちゃう。

 

 「ああ、暇な女子大生さんは、めちゃくちゃ頭がいいし、冷静だな」

 「それか、これは企業のステマだな」って思った(真実がどうかは知らない)。

 

 

AKBの炎上商法みたいに、「ゴチャゴチャいちゃもんをつけてくるウンコも、金になるな」って気づいてるんだと思う。

 

 

 

●そもそもウンコをスルーする人間

 

 

 私はウンコにキレるし、「暇な女子大生」はウンコを利用してる。どっちもウンコに反応してるんだけど、そもそも、ウンコをスルーする人間もいる。

 

 そういう生き方が、いちばんストレスフリーだなあ、と思う。

 

 

 主観的に私が思ったことなんだけど、ニートのphaさん(はてなブログでアクセスを集めまくっている人)が、そうういう人だと思う。

 


 

 pha(ファ)さんって読むんだけど、テレビとかで、「ファさん」ってなんだよ! ってコメンテーターに叩かれてた。それでも、「そうですねー」ってどこふく風。

 

 はてなブログを始める前、phaさんのブログをよく読んでた。

 

 「みんな頑張って働いて、消費してるけど、そういう所から一歩ひいて生活しましょう」みたいな、肩の力が抜けた生き方を提示してくれてる。

 

 phaさんは京都大学を卒業してるから、「ああ、頭のいい人の生き方だなあ」と思う(私にはとうてい真似できない)。

 

 

 phaさんのブログは、コメントは誰でもできるようになっている。

 

ニートで生きてて楽しいですか?」みたいに煽られても、まったく反応してない。

 

 淡々と、ただ、ブログを更新し続けている。

 

「道端のウンコにまったく動じていない人間がいるぞ!」と、「暇な女子大学」とは違った意味で、驚いた。

 

 

 

 

●「物がなくなった! イライラする!」

 

 

 phaさんのつぶやきで興味深いものがあった。

 

 「物がなくなった。カルマを背負って消えていったんだろうな」

 

 よく考えないと、意味がわからない。ふつう、物がなくなったら「どこにいったんだ?!」ってイライラすると思う。

 

 「カルマ」は、人が背負ってる、どうしようもない悪いもの、みたいな意味だった気がするんだけど、

 

 「自分の悪い所を背負って、物が消えていったんだなあ、ありがとう」って言ってるみたいで、「どうやったらこんな肩の力が抜けた生き方ができるんだ?!」って驚きまくり。

 

 きっと、座禅とか、瞑想とかが、そういうのに近い世界なんだろうな。私はまだそういう世界にどっぷりつかる気はないけど。まだまだ、道端のウンコにキレまくるんだと思う。

黙ってればいいのに、やっぱりあれこれ口出ししちゃう人間の心理

●「コップに水が半分入ってるじゃろ?」というクソなたとえ話

 

 

 さっきの記事の続きで、好きか嫌いか、感情で、瞬間的に判断しちゃう話。

 

 「コップに水が半分入っています。『半分しかない』と思うのか、『まだ半分ある』と思うのか、あなたの考え方で、捉え方は変わります」みたいな、たとえ話がすごく嫌いです。誰かが「たとえば、コップに~」とか言い出したら、「あのクソなたとえ話か」って、瞬間的に耳と心を閉ざしちゃう。

 

 

 だってこのたとえ話、環境でぜんぜん捉え方が違ってくる。

 

 たとえば、真夏のサバンナでは「半分しかない」って思っちゃうし、すぐに水が手に入る湖の近くとかだったら「まだ半分ある」って思うし。

 

 

 私も、あなたも、置かれている環境も違うし、持っている才能のカードも違う。

 

 得意なことも違えば、苦手なことも違う。

 

 だから、「私はこうやって成功したから、あなたもそうすべき!」みたいに押し付けちゃうのって、押し売りに近い。ただのうざいおじさん/ババアだよな。

 

 

 

●黙ってればいいのに、やっぱりあれこれ口出ししちゃう人間の心理

 

 

 私もつい、「私はこうやったから、あなたもこうした方がいいよ」とか言っちゃう。そういう時、「あ、他人に自分の考えを押しつけてるな」って、ちゃんと自覚した状態で言わなきゃ、本当にただのうざいババアになってしまう。

 

「この人は、果たして納得してくれてるんだろうか」って想像力を持った方が、コミュニケーションはうまくいくんだろうけど。

 

 

 私は理論人間なので、頭では納得してても、行動にうつせないことだらけ。

 

 頭でっかちな、うんこ人間なので、薬を飲んで行動しまくったけど、ことごとく失敗に終わった。

 

 

 「薬はやめた方がいいよ!」とか、他人からさんざん言われたんだけど、「じゃあ、薬なしでどうやって働くんだ? おまえが金をくれるのか?」とも思ってた。

 

 自分の責任が取れないようなことを、つい他人に押しつけちゃうのをやめたい。

 

 何にも言わずに、黙ってて受け入れてくれそうな、引っかかりがない、くさみのない俳優・アイドルが売れるのって、こういう所からきているのかもしれない。

 

 

 

●声に出したく呼びたくなる名前

 

 

 私はよくブログで「これが嫌い」「あれが嫌い」って主張しまくってるけど、こうやって文章で自分語りをしてるくらいだから、日本語が好き。更に言えば、日本の名前が好き。

 

 

 昨日の記事で、amazarashiが好きな話を書いたけど、「秋田ひろむ」っていう言葉の語感が好き。あと、元andymori小山田壮平(おやまだ・そうへい)」もつい声に出したくなる。

 

 「おやまだ」に、すごく引っかかっる。さっき書いた記事の、「『猫がやだやだやだやだ やだよーう』っていう言葉、何だ??!」って引っかかったのと同じ。

「そうへい君」とかじゃなくて、つい「おやまださんは~」って話したくなる。

 

 

 他には、number girlのドラマー、「アヒト・イナザワもすごく好き。「イナザワアヒト」じゃなくて、「アヒト・イナザワ」。「どうして、苗字と名前が逆なんだ? どうして真ん中に『・』が入ってるんだ?」とか、つっこみたくなる。ブルゾンちえみ」と同じ語感だと思う。

 

 こういう、「声に出して読みたくなる名前」を考えた時点で、ブルゾンちえみなんかは圧勝してるよなと思う。あと、顔のメイクも、「なんだおまえは??!」って、ちゃんと引っかかって、ツッコミを入れたくなるのもすごい。

 

 なんJ語で、語尾に「ンゴ」ってつけちゃうのも、語感が良いからだろうな。真夏の夢の淫夢があそこまでバズったのって、きっと「声に出したくなるような言葉」がいっぱい出てきたのも、一因にあるかもしれない。

 

 そういうわけで、日本語の持つ無限に可能性を秘めてるかんじが好きです。

 

 

(余談なんだけど、このブログを、「墓」っていう名前でやってるんだけど、ツイッターで「墓さんは~」って呼ばれると、「墓さん(笑)」ってつい笑ってしまいます)